歴まねブログ

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幕府目線からの明治維新<明治維新編④>

強引な幕政 

 

家茂が将軍に就任後、直弼は強引な政権運営を行う。直弼は天皇の許可もなく日米修好通商条約に調印してしまうのである。この強引な調印に対し強い批判を行なったのが権力抗争で負けた一橋派と天皇を尊び外国を打ち払うという思想の尊王攘夷論者であった。特に一橋慶喜水戸藩及び長州藩尊王攘夷思想が強く、強引な調印に反発。直弼の独断政治を激しく批判した。

また外国人嫌いであった孝明天皇も無断調印に反発し、本来は幕府経由で諸藩に伝達をする勅書を水戸藩に下し、諸藩協力し外国勢力への対応を行うようの内容の勅書を諸藩に伝達するよう水戸藩に命じた。(戊午の密勅)

これらの行為に幕政転覆の危機感を募らせた直弼は1858年(安政5年)政権反対派の弾圧を行い100人近くを処罰した。(安政の大獄)この処罰には吉田松陰水戸藩の多くの尊王攘夷派志士も処罰され、これらの処罰が後々の桜田門外の変へと繋がる。

 

桜田門外の変

 

直弼は水戸藩に下された勅書を朝廷に返還させるべく圧力を強めた。直弼の勅書返還要求に対し、水戸藩内は尊王攘夷過激派と返還を容認する鎮派に分裂。

そして、関鉄之介をはじめとする尊王攘夷派17人と薩摩藩有馬次左衛門が直弼暗殺を決意する。 

1860年3月3日朝、天気は大雪。水戸浪士ら18人に対し、直弼の護衛は約60人。彦根藩邸を出た直弼の行列が桜田門付近に差し掛った時一斉に襲撃。不意の襲撃や、雪のため護衛たちが刀に柄袋をかぶせていたこともあり、大老井伊直弼暗殺に成功。

白昼堂々暗殺される事態は幕府の権威を大きく損ない、幕府の専制的な政治は崩れはじめる。